真に知性的であるということは… 内田先生と実際の住職・釈先生の対談本。ほんものの「知性」とは「宗教性」に支えられてしか、ありえない。はぁ、これはどえらいことだ。合理性を武器に、宗教性を一枚一枚、時間をかけて削り取って、そこに現われたのが近現代世界ではなかったのか。それは「知性」をも同時に剥ぎ取って行く過程だったのか。言うことが並じゃない、内田先生は。
それにしても、自宅にお堂を建立し、そこに現役住職を呼び寄せて、宗教とは何かのお説法を聞くのかと思いきや、水を獲た魚のごとく宗教の本質を語り尽くす内田先生。お相手が釈先生だからだろう。楽しくて、楽しくて仕方がないのが手に取るように伝わってくる。釈先生も大変だったろう。おかげでとても刺激的な話が聴けました。ありがとうございます。
因果に法則なし 東西冷戦が終結し、「大きな物語」は完全に消滅したと言われた。そして人々は小さな物語に安易に飛びつく。「原因と結果の法則」などというものはその典型的な例である。
そして合成の誤謬ではないが(そうであると主張したいが)、小さな安易な物語が寄せ集められて、とんでもない大きな物語が甦るのである。
新自由主義の経済イデオロギーを背景とする「成果主義」「自己責任」「自己実現」、いずれもみなそうであり、本書に扱われている「因果」の解説はいずれも浅墓な物語への飛び付きを撃つ。「あらゆる因果律は暴力だ」と言うレヴィナスの言葉は、現代思想が語った最も深い言葉として我々の生活や人生に無関係ではないのだ。
本書は仏教入門としてはもちろん、倫理や道徳を問い、また教育を考えようとするものにとって誠に有用な書物だと思われる。
「配役が逆」な師弟関係が、なんとも面白い これはいわゆる「問答」だ。内田樹(弟子)が宗教について問い、釈徹宗(師)がそれに答えるメール往復書簡である。ところが、この2人のやり取り、内田の方が年長だし、明らかに一枚上手なのである。釈自身「この人のほうが私より真宗の僧侶に向いている!」と書いている。この、一般的に考えると「配役が逆」な師弟関係が、なんとも読んでいて面白いのである。内田はラカンの「師は、弟子が答えを見出す正にその時に答えを与える」という言葉に対して2つの解釈を提示する。1つは「答えを見出すのは弟子ひとりであり、弟子は自分が独力で見出した答えを、師のうちに事後的に読み込むのだ」という解釈。弟子=内田、釈=師と考えた場合、本書は一見、まさにそんな風に見える。もう1つは、「弟子が答えを見出すまさにその時に、師もまたその同じ答えを告げるために口を開く」という解釈で、内田はこの解釈を推す。読み進めるうちに、確かに本書の師弟関係も後者なんじゃないか、と思えてくるのだ。内田の、相手が若いからって、あるいは師だからって手加減しない誠実さ、それを正面から真剣に受けて精一杯返す、釈のすがすがしさ、大器の片鱗...
もちろん、中身も面白い。ラカン、レヴィナスといった西洋現代思想と東洋仏教思想の整合性ってアプローチで、門外漢にも仏教の輪郭がうっすらと見えてくる仕組みだ。上手な内田・現代思想を、釈・仏教思想がどう受けとめるか、って視点で読んでるうちに、判官びいき的に、仏教への親しみも沸いてくる。続編「はじめたばかりの浄土真宗」も是非読んでみたい。
因果について フランス現代思想とユダヤ教の研究をしている(と思う)内田樹が、宗教学者(であり実際の本願寺派の寺の住職)とインターネットで対談した本。の上巻。 自分の知らない分野について、こんなかたちで本にしてしまうのは、何というか向こう見ずだと思う。 けど、書かれている対話の内容は生ぬるいようで、鋭い。「因果」「執着」についての議論が印象に残る。仏教は、因果ということを説くけど、これは原因があって、結果があるということではない。 <たとえば、親という存在が子を生み出す原因である、ということを考えてみて下さい。親は子の因でありながら、子という果が成立した瞬間に初めて親という概念が成立します。親という「因」と、子という「果」、概念の誕生は同時なんですね。>(釈さん) なるほど。で、世の中には実際に何が因なのかよく分からないことがたくさんある。そういうときにぼくらは、何が因なのかを突き止めようとする。でも、よく分からない。分からないままでほっとけなくって(=「執着」があって)こじつけることもできるけど、結局は「無明=本質が分からないこと」の中に苦しむ。 ふむ。結局、じゃ、浄土真宗を始めとする仏教っていうのは、何も分からない、ということを教えているのか、ということになる。 その通りみたいだ。 <しかし、仏教の道は、こんな調子で展開していきます。[、、、] 『それじゃ、いつまでたってもすっきりしないじゃん」と思われますか?確かにそうかもしれません。中沢新一氏は、「仏教ほどカタルシスがない宗教はない」と語っています。『あれではない』、『これではない』という繰り返しで、なかなか『これだ!』ということにならないからです。>(釈さん) カタルシスがないんだね。けど、そういう「分からない」ということに耐え抜く精神を鍛錬してきたからこそ、何千年も歴史を生き抜いてきたのだろう、と思う。世の中分からないことだらけだし。
クールに仏教の内実へと迫るスタイルが◎! この本、上下巻とも、珍しくノンストップで読みきりました!!浄土真宗のお寺に生まれ育った私が、環境があまりに自明なだけにぼんやりと抱いていた拒否感は、内田氏・釈氏のお二方の絶妙な論の掛け合いによって取り払われた気がします。仏教を語る方法に、現代に即応したボキャブラリーを駆使されている釈氏の仏教、浄土真宗への姿勢にただただ感銘を受けました。仏教の必要性とは、究極の可能性である「死」は、必ずしも「元気な私」という「生」の二項対立のみのものじゃない、と思えることかなと再認しました。一読でなく繰り返しかみ締めて考えられる本です。
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